8月9日は「長崎原爆の日」
1945年8月9日、長崎に原爆が投下されました。
実は、その日の朝、アメリカ軍機が向かっていたのは長崎ではありません。第一目標は、現在の北九州市小倉北区にあった小倉陸軍造兵廠。
北九州に暮らす私にとっても、8月9日は遠い昔の出来事ではありません。
現在の北九州市立「平和のまちミュージアム」が建つ勝山公園一帯には、かつて小倉陸軍造兵廠(こくらりくぐんぞうへいしょう)がありました。
陸軍の兵器を製造する施設で、総面積約58万㎡、最盛期の工員数約4万人。
太平洋戦争中、造兵廠としては日本最大級の規模だったとされています。
長崎に投下された原子爆弾の第一目標とされていた場所が、この大兵器工場なんです。
1945年8月9日の朝、原爆を搭載したアメリカ軍機は小倉に飛来しましたが、目標付近は視界が悪く、投下に必要な目標の確認ができませんでした。
そこで向かったのが第二目標の長崎。
長崎でも雲などの影響がありましたが、最終的に目標地域を視認。
午前11時2分、原子爆弾が長崎市北部の上空約500メートルで炸裂しました。
「小倉が第一目標だったのに、なぜ長崎に?」――その答えのひとつが、当日の上空の状態だったんです。
1945年8月9日、生まれも育ちも小倉の父は、原爆の投下予定地からわずか数百メートルの場所で空襲警報を聞いたそうです。
原爆が投下されていたら全壊全焼のエリア。
小倉への原爆投下が見送られ、爆撃機が長崎へ向かった結果として父は生き延び、そこから続いた年月の先に、今の私がいます。
もし小倉に原爆が投下されていたら、父の人生も、その後につながる家族の歴史も、まったく違うものになっていました。
私にとっての8月9日は、今の自分につながったことを思う日であると同時に、長崎で犠牲になった方々に心から哀悼の意を捧げる日です。
北九州市でも原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を毎年開催しています。
今回の筆文字は『本当は小倉に落ちるはずでした』
この言葉をきっかけに、長崎だけでなく、北九州にも「原爆投下の第一目標だった」という歴史があることを知っていただけたらと思います。
1945年8月9日、長崎に原爆が投下されました。
実は、その日の朝、アメリカ軍機が向かっていたのは長崎ではありません。第一目標は、現在の北九州市小倉北区にあった小倉陸軍造兵廠。
北九州に暮らす私にとっても、8月9日は遠い昔の出来事ではありません。
「小倉陸軍造兵廠」とは?
現在の北九州市立「平和のまちミュージアム」が建つ勝山公園一帯には、かつて小倉陸軍造兵廠(こくらりくぐんぞうへいしょう)がありました。
陸軍の兵器を製造する施設で、総面積約58万㎡、最盛期の工員数約4万人。
太平洋戦争中、造兵廠としては日本最大級の規模だったとされています。
長崎に投下された原子爆弾の第一目標とされていた場所が、この大兵器工場なんです。
なぜ小倉ではなく長崎だった?「視界不良」が運命を変えた
1945年8月9日の朝、原爆を搭載したアメリカ軍機は小倉に飛来しましたが、目標付近は視界が悪く、投下に必要な目標の確認ができませんでした。
そこで向かったのが第二目標の長崎。
長崎でも雲などの影響がありましたが、最終的に目標地域を視認。
午前11時2分、原子爆弾が長崎市北部の上空約500メートルで炸裂しました。
「小倉が第一目標だったのに、なぜ長崎に?」――その答えのひとつが、当日の上空の状態だったんです。
もし小倉に落ちていたら…
1945年8月9日、生まれも育ちも小倉の父は、原爆の投下予定地からわずか数百メートルの場所で空襲警報を聞いたそうです。
原爆が投下されていたら全壊全焼のエリア。
小倉への原爆投下が見送られ、爆撃機が長崎へ向かった結果として父は生き延び、そこから続いた年月の先に、今の私がいます。
もし小倉に原爆が投下されていたら、父の人生も、その後につながる家族の歴史も、まったく違うものになっていました。
私にとっての8月9日は、今の自分につながったことを思う日であると同時に、長崎で犠牲になった方々に心から哀悼の意を捧げる日です。
北九州市でも原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を毎年開催しています。
今回の筆文字は『本当は小倉に落ちるはずでした』
この言葉をきっかけに、長崎だけでなく、北九州にも「原爆投下の第一目標だった」という歴史があることを知っていただけたらと思います。
筆文字アート『本当は小倉に落ちるはずでした』(2026年 制作)